カルマについて、ちょっと考察です

前回のブログで、今回の体調を崩した理由の続きを書くと言いましたけど
それはまた次回ということにして、(いつも約束破ってばかりでごめんなさい)
今回は、先にカルマ(業)について、ちょっとだけ
私の考えを書いてみたいと思います。

けっこう理屈っぽくなるかもしれないので
興味のある人だけ、読み進めてみてくださいね。
前回の記事の中で、自分の悪業を落とすために
ピラニアや肉食の獣たちに
自分の身体を差し出すという瞑想を夢の中で行った、
という内容のことを書きました。

それがもし、現実の世界で行われたとしたならば
自分を殺して食べた獣たちは悪業を積むことにはならないのかという
お話についての私なりの考察です。

まず、悪業といものの定義を考えてみます。
難しいのですが、ひとことで言うとしたならば
自分以外の魂に苦痛を与えること、となるのではないかと思います。

つまり、なにを言いたいかというと
同じ行為でも、対象の苦痛の感じ方によって
悪業の度合いが変わってくるのだと思うのです。

たとえば、同じ悪口を同じようなシチュエーションで言ったとしても
ある人は、それを冗談と軽く交わして笑いに変えるかもしれません。
ある人は、本気で受け取って、怒ったり悩んだりするかもしれません。
そのときに、それらが同じ悪業となるのでしょうか。
自分は同じ気持ちで同じ言葉を発していても
相手の受け取り方で悪業としての度合いは変わると思うのです。

このように考えれば、獣が自分を殺して食べてしまったとき
獣にとって悪業になるのかどうかというのは
殺された側の気持ちで変わってくるのではないでしょうか。

自分が痛めつけられているときに
「これで私の悪業が落とせる、
私の悪業を落としてくれているこの魂に心の底から感謝しよう。」
と、本気で思うことができたとしたなら
自分を痛めつけている相手の善業にすらなることも
あるのではないかと思うのです。

ただ、ほんとにここまで思える人というのは
よほど悟りの深い人ではないとあり得ないと思うので
非現実的な話かもしれません。

でも、自分を痛めつける人に対しても
ほんとにこのように感じることができれば
世の中の悪業の総量が減って
同時に、この世の中から憎しみがなくなって
光に満ちあふれた世界を作ることも
夢ではなくなってくるのかもしれませんね。

そのためにも、私自身も
難しい課題ですけど、気がついたら
こんな風に思える努力をしていけたらいいなと思います。
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Comments 4

silver-eagle  

文章を読み「積善派」という「功過格」を用いる仙道の流派の話が頭に浮かびました。「功過格」とは「人を殺めればマイナス何点、人を助ければプラス何点」という風に善悪の行為を数値化したものです。この考え方だと<行為する側の行為に、固定したカルマの質や量が決まっている>という考えかたですね。客観的定数の世界。ポイントカードの世界^^
himikaさまの「受ける対象側の主観により、カルマの質や量が変化する」という考え方と対照的で興味深いです。
「悪業を落としてくれている魂への感謝は相手の善業になる。」という考え方はすごいと思う。「カルマの量や質は不変で、生物同士を行ったり来たりするもの」という思い込みがあったからかな?
でも、そう思えることで、光りへ質的変化ができるのは素晴らしいですね。自分への善業にもなるのかも。私もこんな風に思えるようにできたらと思います。難しそうですが^^
おおいなる気ずきをありがとうございます^^

2005/12/07 (Wed) 10:28 | EDIT | REPLY |   

緋彌華(himika)  

私は仙道のことは全く知識がないのですけど、silver-eagle さんのコメントを拝見して、チベット仏教やインド仏教などの小乗仏教の考え方が、仙道の「積善派」という考え方に近いかもしれないと思いました。
それが大乗仏教の菩薩の考え方になってくると、考え方が変わってくるような印象があります。
私の持っている菩薩のイメージというのが、苦界を輪廻している魂の闇のエネルギーを自分自身で吸収して、それを光のエネルギーに転換していくんだろうなと感じているんです。これはヒンドゥー教のシヴァ神にまつわる神話の中にも、このような逸話があったからかもしれません。
もしも、ほんとうに心の働きひとつによって、このようなことができるのであれば、私にはとうてい難しいことなのですけど、すごくあこがれていることなんです♪

2005/12/07 (Wed) 10:28 | EDIT | REPLY |   

silver-eagle  

少し前にテレビでアニメ・火の鳥[異形編]をやってまして、侍が尼を斬った罪により永遠に殺される運命を持ってしまう。それから解放されるためにその尼となり、火の鳥の羽により永遠に、人や異形の者の病を救い続ける。罪を許されたら、30年に一度、閉じこめられた、時空の狭間から抜け出せるというストーリーでした。尼は菩薩になっていくのでしょう。
シヴァ神は慈悲の心から世界へこぼれた毒を飲んでしまい、首が青くなった。それが「青頚観音」になった。キリストも人の罪(魂の闇のエネルギー)を背負い、十字架に架かり、死に、復活する。大国主命も担いだ袋に、人の重荷を肩代わりしてくださる。(大国主も兄神に2回殺されて復活してますね。)民族それぞれに似た存在のモチーフがある気がします。
私の菩薩というイメージは、釈迦か観音は天国(究境涅槃)に入れる資格があるのに「後に苦しんでいる衆生を捨ておけない。私は全てのものが天国に入った後、一番最後に天国の門をくぐろう」と心を砕いているという話を聞いたことがあります。私ならさっさと天国の門をくぐるのにな^^;
でもそんな菩薩たちを敬愛いたします。微力ながらそのお手伝いができればと思っています。(その前に私がさっさと救われないと。)

気功の先生の話によると、「邪気」と言われるものは「滞っているエネルギー」「過不足あるがゆえに都合が悪いエネルギー」とされていて、もともと
気自体に良い悪いはないみたいです。気功師やヒーラーはエネルギーの交通整理をしてあげるみたいです。
himikaさまの言うとおり、心の働きひとつでできるのでないかと私も思います。例えば、人の悩みを聞き、それを整理してあげるのも、闇のエネルギーを光りのエネルギーに転換しているのだと思います。日常生活の中でそれができるようになりたいです。

2005/12/07 (Wed) 10:29 | EDIT | REPLY |   

緋彌華(himika)  

長いコメント、ありがとうございます。
私も、お釈迦様の「自分が一番最後に天国(涅槃)に入る魂になる」という誓いは大好きです。すごいことですよね。観音様もそんな誓いを立てていらしてのですね。
私もそんなことのお手伝いができたらいいのですが、私の場合は足を引っ張りそうな雰囲気が大なので、もっと心を鍛えないといけないです。^^;

>「邪気」と言われるものは「滞っているエネルギー」
>「過不足あるがゆえに都合が悪いエネルギー」とされていて

すごくわかりやすい説明です。言われてみると確かにその言葉がピッタリ感じます。エネルギーの詰まりを通すというのは、そういうことですものね。
ほんとに、それが心の働きひとつで、どうにでもできるようになったら、ステキですよね。そのためにも、知性や心の強さや慈悲心を、少しでも鍛えていかないとと、思います。

2005/12/07 (Wed) 10:30 | EDIT | REPLY |   

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